昭和43年11月14日 夜の御理解●
今日、二度目のお参りを関さん達が親子でしてまいりましたが。この頃から、あの、(ひろこさん?)がパーマの試験を受けておりました。20人に1人と言う、たいへん、まあ難関です。とても自分はできない。できるはずもないけれども、まあ、神様「受けれ」と仰るから、受けたわけですけれども。
今日、発表見に行ったところ、一番にできとったって。もうびっくりしてから、あの、お母さんと2人で、今日またお礼に出てまいりましたんですけれども。そしてここでお届けされることですよね。
「ほんとに親先生任せになっておきゃ、おかげを頂かれるということを、私どもここ10年間、まる10年間の、まあ、様々な事柄を通してから、いよいよそれを分からせて頂いた」とこう言うんですよね。
まあ10年間の間には、もうそれこそ、ほんとにたいへんな事が、やっぱあったんですね、あちらにも。もうほんとに、たった一人息子の息子さんに、まるきり脅迫されるように、金をもう何ぼでもせびられなさってですね、その、居らないと黙って物を持ってったり、金を持ってったりというようなあれが、最近おかげを頂いて、もう大学を出とりますことですから、良い所に就職して、立派な家に住もうて、もう安心と言うようなところまでおかげを受けたのを始めにとしてですね、あちらにあんな、こんな立派なお家が、私は見た事ありませんけれども。もうとにかく人が言うには、もうえらい立派なお家ができておると言う話ですから、もう毎日、今その、十畳の間、いわゆるお神様の間を、どんなに、あの、神様に喜んで頂くような良い居間にするか、ということに一生懸命でその、いろいろ、御神具屋さんに問い合わせたり、高橋さんまで、今度またあそこの御神前、お神様の間ができますので、いろいろ打ち合わせを聞かれたり、まあ、もういろいろに工夫されておられるわけですけれども。もう、そうしなければおられないほどのおかげなんですね。
もう万事の上におかげ。それがまあ今、10年目に例えば、その、おかげになってきたんですけれども。10年という間は、それこそ、もう泣くにも泣かれないような中を通って来ておられるということですね。とても、あれは積極的に、ただ一途に神様へ向こうて信心を進めてこられたが、ここに思われる事はですね、やっぱりあの、こう、(しざこざ?)じゃなくてからもう、ああいう勢いで「やあ!」とやり抜かなダメですね信心は。ね。ほんとにあの、あの勢いがやっぱり大事です。
そして、もうそれこそ、もう、あれも成就これも願いが叶うてと言うように、確かに、10年したら我とわが心をまつれ、と仰るが。ほんとに、まつらにゃおられん、拝まにゃおられんというようなおかげを受けて。ね。
で今日、ひろこさんの、それこそ20人に1人という難関をパスして、お礼にでて見えたんですけれども、「ほんとに親先生任せにさえなっておけば、おかげを受けられる」と。親先生任せになって、信心を進めてさえいけばおかげを受けられるということをですね、まあいわゆる、私も今日は、ほんとにそれを実感にいたします。
これは、私が最近、もうお道の信心をさして頂く者はもう、教祖様の御教えに忠実になる以外にはないんだ、とこう私は確信しているんですけれども。ここではどういうことかと言うと。確かにもう親先生任せになる以外にはない。うん。
ですからね、もうとにかく、その私の事を、まあ神なら神とこう言うて下さるわけですけれども、あの、神の背中に乗ってさえおれば、どんなに波が荒れようが、その、どういう中を通って行くでもですね、もう神に、その神にしがみついてさえおりゃ、もう竜宮行きはもう間違いないということ。これは、私は確信されます。
もう私任せにさえなっておきゃ、絶対おかげになる。ただし、過程においては、(どげな時でも?)あるから、しがみついてはずれんと言うだけのですね、これほど信心するのにと、なんて言うようなことを思わずに、おかげ頂かなきゃならんということですよ。私はその、そこんところをですね、いよいよ、こう信じさしてもらう。
今日はあの、何か世界の国から、何かね、たいへんな、特別な、その力を持った人達の、何かびっくりなんとかと言うのがありましょうが。びっくり。もうびっくりなんて言うもんじゃなかったですね、今日は、特別番組である、とあのまあ、名詞でありましたが。
あの、フィリピンの29歳になる、言わば、まあ青年ですね。の方が、九つの歳からですね、自分に特別の働きがある事を自分で知ったんですね。木から落ちた、あの、友達がケガをした。その時にです、その子供の、その足を撫でよる内にね、ケガがなく、治ったんです。治ったと言うか、もう傷も跡形もなく治ったんです。
それ以来、自分にそういう特別な働きがあるんだと信じて、20年間、今日は、その手術をされる現場を見せてもらったんですけれども。手で手術する。手で腹を切る。それでそこのガンならガンを取り除いてから、それが何分とかからんのです。2、3分。やっぱ血もでますけども、(交互にやって?)腹を撫でよると、腹がですね、こう、断ち割った腹が、元通りになって、もう跡形もないです。もう恐ろしい事だと私は思いましたですね。ね。
「信じる」ということは、もうこんなにも素晴らしい事かと。私その時に、あの、「信ずる者を信ずる」と、神様はああいうふうに教えて下さるんですけども、今日はね、あの、●「信じ信じられよ」ということを頂きました。信じ信じられよということは、私今申します「私任せにさえなっときゃ絶対おかげになる」ということを私は信じておるわけです。私はね、神様を信じてるわけです。もう私任せになっときゃ絶対おかげになる。ね。そこで皆さんはです、私を「親先生任せにさえなっときゃ絶対おかげになる」と確信しなければいけませんですよね。
そこで、んならその、親先生任せになっておる間がです、んなら私が、私がその「教祖の教えに忠実たれ」とこう言うておりますけれども、なら、ここでは皆さんがですね、私の信心というものが、親先生の信心はこうだと分かったら、親先生の信心に、いよいよ忠実になる以外にゃないということです。親先生の信心に、いよいよ忠実になること。もうここはごまかしはできない。できてん、できんなん、その気になること。ね。
真実私は、あの、そこんところをですたいね、皆さんが、私を信じて下さる、一生懸命の修行をして下さる。私を信じて下さる為に、一生懸命の信心、いわゆるそこで、なら親先生の信心はということになり、親先生の言われることはということになり、ね、信心を言われることを、もうほんとに忠実に守る以外にはない。親先生の信心を頂いて行くこと以外はない、というようなありかたの中にです、親先生任せになって行きゃもう絶対の、(竜一匹?)は間違いないと。親先生の背中にしがみ付いてさえおりゃ間違いない、と皆さんが信じて下さり、私が神様を、いよいよ信じて(?)、いわゆる、私任せにさえなっときゃ絶対おかげになる、と確信するということは、これは神様を信ずるということなんです。
神様が私に下さっておる、その、今日のその、フィリピンのその方じゃないですけれどもです、自分にそういう力があるというのを確信しておるように、これだけは、私も確信しております。「私任せになっときゃおかげになる」ということ。ね。
それをここでは、まあたくさん、部分的にではあるですけれども、親先生任せになっときゃ間違いないということは、任せになるだけではなく、その親先生に忠実にならにゃいかんということです。ね。親先生の言われる事に忠実にならなければ。右向けと仰りゃ「はい」左向けと仰りゃ「はい」その忠実にならなければ、そこがたいへん時間がかかったりです、または、それが乱れたり崩れたりしてくる事は、これは、まあしかたありませんですね。それはもう任した事になりませんもの。
言うならば、任せるということはね、もう身も心も任せるということなんですから。ね。ですから、自分、「はあ、親先生は右って言いなさるばってん、左じゃろう」と言うなんていうことは、もう任せてない証拠です。ね。親先生がこうと仰るから、「そればってん、そげなわけにはいかん」と言うたら、もう親先生任せになっとらん証拠です。ね。
そういう意味で私は、今日関さんが言われる、「親先生任せにさえなっときゃ、おかげ頂けれる」ということを親子三人の者がいよいよ、それを10年経った今日です、それを分からして頂くとこう言うておられます。ね。
まあここではそういう体験を皆さんもたくさん持っておられますけれども、それをもっともっと強いもの。もっともっと親先生の信心に忠実になる事に努めなきゃならん。私はもちろん、もっともっと神様を確信できれる、例えば、力と言うか、範囲を広めて行かなければならないことはもちろんです。為には、ただおでこば見えておるだけ。ね。の信心でそれが得られようとは思われない。ね。いよいよ、教祖の御教えに、ほんとに素直に忠実にならして頂くということですね。
とにかく素直にね、素直に親先生の言われうことを守らしてもらう。親先生の言われることには間違いはない、と皆さん確信して下さるようになる時にです、これは、私が頂いておるようなおかげを皆さんも頂かれることを私は確信いたしますですね。どうぞ。
明渡 孝